2024年5月、卒業式を間近に控えるキャンパスを散歩していると学生たちの熱い想いがひしひしと伝わる空間が現れた。
日々多くの学生や観光客が訪れる生協の目の前に、親パレスチナ派の学生を中心に活動するテントや横断幕の数々。
出来事として報道では目にしていたが、平成に生まれ育ち、日本でも“過去に”学生運動が盛んな時代があったらしいとぼんやり聞いたことのある程度の私には少しタイムスリップした気持ちになる。
と同時に、その真っ直ぐな訴えと行動力を眩しく、羨ましく思った。そう感じるのは恐らく、湧き上がる情熱を打ち消すことに必死で生きてきたから。
私は “正解なんてない”を知るのが早すぎた。
見える景色に思うことはあっても、向けどころも居場所もなく鬱屈とした感情になり人格、習慣の一部と溶けてゆく。
それが定着している私の目に、彼らは輝いて見えた。社会との関わりを保ちつつ健全に(暴徒化している一部の人はこの限りでない)昇華しているように見えた。もしかすると、彼らもまた、人生のある時点で感情を押し殺した経験があり、この活動に活路を見出したのかもしれない。
テント設置から約1ヶ月ほど経ったとき、学生生活の安全を脅かす事態となりこのテント群は跡形もなく撤去された。
その代わりに、噴水を挟んで対面に設置されたのが以下。
整然と並べられた被害者の写真とアメリカ/イスラエル国旗。中央には被害状況を訴えるスクリーン。淡々と悲惨な光景が映し出され、元あったパレスチナ派のテント(親パレスチナ側のは手書きの横断幕、ビラ配りやハンガーストライキ)に比べると肩透かしを喰らったというか、拍子抜けと言った印象。
事の大小はあれど、誰もが経験する対立。それが国や民族同士となると表れ方は拡大するが、人の本質や健やかに生きたいと願う本能的な欲求の先にある、一つの現象に変わりないと感じる。
同時に、現実に目を向ければ解決すべき課題、放って置けないことが世の中に溢れていることも確か。
しかし外に向けて想いを形に行動する人も、自らの生活と向き合う人も優劣なく、等しく与えられた権利の下に今日を全うしている。
双方が主張を展開する芝生の間には噴水があります。それを見て感じたのは、人間にとって愛とそれを求める欲求は絶えず湧き出る豊かな泉のよう。
その豊かさを滞りなく循環させることが至上命題なのではと。そのことを忘れず、慈愛を以て自他と向き合えたら私は幸せ。